メイアクトMS錠

抗生物質メイアクトMS錠(セフェム系抗菌剤)
薬で副作用の症状がでたのは今までこれだけ

今年の2月
歯科に通い始めた頃・・そもそも前歯の差し歯が取れて歯科通院が始まった。
根元が化膿していることがわかり、この飲み薬を処方された。
1日4回(3食後と寝る前)に飲むように指示された。
飲み始めて3、4日経った頃からおなかの調子が悪くなった。

(汚い話で申し訳ないが)
ほとんど水状。小の方と一緒に毎回。
それが数日続いた。薬の処方が終了しても症状は治まらなかった。
ただ、食あたり等とは違い、おなかの痛みや苦しさや臭いもなくさほどつらくはなかった。

しんどくなったのはその後
排出されすぎて腸内菌叢というもののバランスが崩れたらしく、
おなかがやたらと張る。
腸内がガスっている。
しかも出ない。でももよおす。
苦しくてたまらなかった。

その時期、職場では
私だけ社員しか入れないシステムに入って仕事。自分のパスワードではない。
5分でロックがかかってしまう。いちいちお願いするのは面倒だし(相手も自分も)、
その上司は留守にすることも多い。だからゆっくりトイレにも行けず。
お腹が張って苦しいのに。

ある1日は脂汗を流しながら耐えた。
せっかくトイレに行けても、人がいたらできない。
そんなタイミングの悪さにもぶち当たった。
がんばれと自分を励ました。家まで耐えろと腸に言い聞かせた。なんとかセーフ。

翌日から薬店で整腸剤を買い、飲み始めたがしんどさが多少緩和されただけ。
腸内菌叢の回復には結構時間がかかった。
症状が出てから1週間位、薬の処方が終わってから2週間位回復までにかかった。

この副作用はよくある副作用らしい。
歯科医師もそのように言っていたし、この時期にたまたま見たテレビでも言っていた。
たいした問題ではないらしい。

某テレビ番組で、抗生物質による腸の不調を抑えるには
一緒にヨーグルトを食べるといいと言っていた。
私は整腸剤で治したが、ヨーグルトを薬と一緒に食べるだけで防げるらしい。
次に抗生物質を飲む機会があれば(ないほうがいいけど)やってみる。

普段、なにも意識はしていなかったけど
おなかの状態が落ち着いているとは、なんとすばらしいことと実感した。
あんな脂汗状態はもうたくさん。

歯茎から膿がでるとあの薬を処方されてしまうので
今は多少あやしいかなと思っても言えない。
消毒系うがい薬だけでごまかすことにしている。

結構耐性があると思っていたのに、副作用がでる薬が私にもあるとは残念。

行列

昨日のトラックバックテーマは行列に並ぶか並ばないかだったが、
行列にまつわる不愉快な記憶が、昨夜床についてからもくもくと甦ってきた。

地元の町では、夏休み明けに農協主催の「農協まつり」という催しがあった。
農業に纏わる小学生の絵の展示や、出店、即売会などをしていた。
かなり小さい時。
金魚を配っていたのでその列に並んだ。
はじめは列がひとつだけだった。
問題なく順番がまわってくるはずだった。
ところが、誰かが金魚水槽の反対側にも並び始め、そちらにも列が出来た。
でも、あきらかに順番としてはその人たちは後から来た人。
金魚担当の農協職員は注意もせず、こっちとそっち、交互に配り始めた。
しかも正確に交互にではなく、気分で、あっち5人配ったらこっちは3人などとやり始めた。
こっちに並んでいた人は文句を言い、向こうの列に並び変えたり、ぐちゃぐちゃになった。
私は1時間近く炎天下の中に並び、倒れそうだったが
もう少しで順番が来ると待っていたが、結局足りなくなり終了。
私はもらえなかった。
もらえなかったのは5、6人。
わりと早くから並んでいたのに、がっかり。
最後の1人分は、1分前くらいに来た子に
「あんたは静かに並んでいい子だ」と周りを見回しながら誉めて渡した。

(そりゃあ1分待つだけなら静かに待てるだろう)
(そもそも秩序を乱したのは大人のアンタだろう)
(列を守らない人間が得をするなんて)
(というか、列の意味がない)
平等にというのなら、秩序正しく早く列に並んだ人からとか、
番号札でも配ってくじ引きとかにするとか、もっといいやり方があるはず。
配る人は一人なのだから、ちゃんと、初めの段階で列を乱した子を誘導して
一つの列に並ばせれば良かったのに。


母は、他の出し物を見ていて私が言われた場所になかなか戻らなかったので見に来た。
母につげ口。
もらえないとなったら、がっくりきて
日射病にもなりかけて、酷い頭痛が起き、日陰で休んだ。
母は(母はその土地出身ではないので)
「やだね~この辺のこういう適当なところが嫌いだよ」などと言っていた。

私は金魚が特別欲しいわけではなかったので
金魚のことはあっさりあきらめがついたが、
この酷い?仕打ちは納得できなかった。
担当者の顔と名前も長い間覚えていた。
今となってはどうでもいいことだが、その人に対する不快感は忘れなかった。
つい数年前、その人に家族が少し世話になったことがあり、
ようやく、むかつく思いを取り除くことができた。
単純にいい人で、正規の列じゃないところに並んでしまった子にも配ってしまったのだろう・・
と今では考え直すこともできる。
最後の1人分はどうしようもなかったのだろう・・もらえなかった子はわずか数人で
その数人の厳しい視線には気がついていただろうから、全く関係ない子にあげるしかなかったのかも。

でも、この手の不確かな列に並ぶのはもうこりごり。

電車

昨日は鉄道の日。
明治5年、新橋駅~横浜駅を結んだ日本初の鉄道が開業した日。


昨日のトラックバックテーマには乗らず、テーマから多少外れた話を書く。

電車、子供の頃は大好きだった。
幼稚園の頃、電車通学(園?)に憧れていた。
幼稚園は徒歩10分ほど。
仕方がないので幼稚園に行く前と帰ってきた直後
家のブランコ(向かい合って座るタイプのもの 小さい頃は平気だった)を電車に見立て、
1、2分ほどこいで、ひとり脳内電車通園ごっこをしていた。
朝:「朝から何、遊んでんの」
帰り:「遊ぶのはバッグを部屋に置いて着替えてから」と言われ、何回かでやめた。

家族で電車で出かけることは大好きだった。
昔は長距離の電車がたくさん走っていた。
電車を乗り継ぎ、北陸のとある街へ行ったこともあった。
父は時刻表好きで、お弁当を買う駅や、スイッチバックがある駅等
事前に細かくレクチャーしてくれた。
私も時刻表好きになった。

近場でも電車は大好きで、景色を見たり、停車している間に
駅のホームにあるその土地の名所案内とか駅名の由来等を書いた案内板を
窓から見るのも好きだった。
駅の順番も知らず知らずのうちに覚えた。

新幹線が開通してからはのんびりとした電車の旅の楽しさも半減した。

以前の新幹線は、停車駅に近づくとその土地ならではのメロディーが流れていた。
実家の近くに新幹線駅ができる時に、どんなメロディーになるのだろうと楽しみにしていたら
その頃にはどの駅でも(JR東日本)共通のメロディになってしまった。

もうその前後あたりから電車も含めて乗り物が苦手になってしまい、
前はどんなに時間がかかっても厭わず、在来線で青春18切符を利用して出かけていたのに
なるべく速く、短時間で、負担が少ない旅の仕方を選ぶようになった。


きょろきょろと景色を見ていたのが懐かしい。
今は眠らないけど目を瞑り、うるさい時には耳栓をして
頭を動かすと酔うのであまり動かず、必要以外は食べず
電車も楽しいとは言えない。

あれほど憧れた電車通勤も実現したが、ただただ疲れるばかり。

今の楽しみはJR東日本ならはやて、JR東海・西日本ならばのぞみの最速新幹線で
通過駅をけちらして走ること位。
実家の最寄り駅だと、乗る新幹線を待っている間に1、2本は通過していく。
それをホームで見ているのは怖くてたまらない。
安全柵があるのにもかかわらず、耳をふさいで反対方向を見てしゃがむ。
それが逆の立場だといい気分。

黄色い太陽

幼稚園の頃
クレヨンで絵を描くとき、太陽は黄色で描いていた。

他の人はみんな赤で書いていた。

太陽が赤に見えたことなんてない。
夕日はオレンジ色
昼間の太陽は強いてクレヨン(12色)で表現しようとすれば黄色が一番近い。

先生は黄色で良いと言ってくれたが
クラス中の周りの人は「なんで黄色なの?」と認めようとはしなかった。
黄色で太陽を描くのは私ひとりだけだった。

初めのうちは私も
「どう見ても、黄色だよ!」などと言い返していたが
絵本の太陽も、その辺のちょっとしたイラストの太陽も皆、赤だった。

幼稚園に行くようになって半年くらい過ぎてから
とうとう私も赤で太陽を描き始めた。
大勢に従わなければならないような気がした。

太陽=赤というのは共通認識的なものらしい。
そう言われればそうなんだんだけど。。。
日の丸の赤も太陽(朝日)を意味している。
日の丸が黄色だったらおかしい。
そうなんだけど、絵を描く=見たままを描くということに小さい頃はこだわっていたので
本心から納得してはいなかった。

太陽=赤についてはもう、いいけど
「大勢に流された」ということに関しては
今更だけど、その変節を後悔している。


私の意志の弱さは今も相変わらず。


でも、この先、周りがどうであろうと思想を「赤」に変えることはない。

稲刈り

もう、稲刈りの季節もとっくに過ぎているけど
このごろ子供の頃の稲刈りを思い出す。
今は大きな規模の農地に集約されてしまったが
子供の頃は家にも田んぼがあった。
田植えを手伝った記憶はないが
稲刈りを手伝ったことはよく覚えている。

幼い頃は、刈った稲を杭で組んだ稲架(はぜ)の所まで運ぶ係りだった。
小学校5、6年生くらいになって、鎌で稲を刈ることを許された。
いっしょうけんめいに刈った。
子供なので腰が痛いということもなく
(あったのかもしれないが忘れた)
怪我をすることもなく、ただただ楽しかった。

途中でおやつ(小休止をあのあたりでは「たばこ」と言っていた)に梨を食べたり
お昼に巻き寿司を食べたりしたことも
遠足のようで楽しかった。

田んぼがどんどん広くなっていく様も
草の香りも、へびが現れてびっくりしたことも
イナゴや赤とんぼがいっぱいいたことも
よく覚えている。
田んぼ周辺の景色は今も夢にでてくる。


稲架へ稲をかけるのは難しいので手伝うことは最後までなかった。
家によってぐるりと巻きつけるようにかけるところもあるし
家のように交互にかけるところもあった。
学校へ行く道の途中で、いろんなかけ方をみることも面白かった。
後年、地方によっては
横に長くかけるところもあることを知った。
コンバインが普及してから、もう見る事も少なくなったが
田んぼに整列している稲架の風景(特に夕方)は大好き。

また雷が鳴っている。
今年は多いような気がする。

雷はそれほど嫌いではない。
小学生の頃、母がたまたま日中いなくて留守番をしていた時に雷が来ると
近所の同級生のお母さんが家へ来て、家(同級生宅)へ来るようにと言われ、
(いやだったけど)従っていたことを思い出す。
親切で言ってくれていたのだろう。
昔だし、田舎だから近所の子も当たり前のように面倒を見るという感じだった。
そこの家の同級生は怖がりだから、私も同じように雷が怖いと思っているのだろう。
私は別に怖くはないし、そこの家に行くのはいやなのだが反論するほどの強い意志はなかった。
内心、その家はうちよりボロだし、汚いし、別に行ってもてなされるわけでもなく
なぜ、こんなところに私がいなくちゃならないの!!と不満たらたらだった。
もちろん、表向きはにこにこしてすごしていたけど。
(親切をありがたいとも思わず、迷惑にすら感じ、よその家にケチをつけ、
 あげくおやつまで期待するなんて…なんて子なのか私)
そんなことが2度あった。今も鮮明に覚えている。

姉と二人だけのときにもすごい雷のことがあった。
雷の時にテレビは消しておくようにと言われていたからテレビは消していたが
姉はなぜか雷の時はガスも危ないと思い込んでいて
台所で何かを作りながら、稲光のたびにキャーキャー言って火を消すので、
私は違うんじゃないかと思いつつ、姉につられて火も電気も危ない!怖い!という気になってしまった。

外にいるとき、河原とか田んぼの一本道にいる時は
雷はとても危険だと教えられていたので、外にいるときは緊張した。
それに、近所の家で落雷で火事になったところもある…家の中でも絶対に安全ということはない。

遠くの稲光を窓から見ていたり、夜の雷で青白く光ったりするのを見ているのは
嫌いではないし、昔の職場では雷が鳴ると端末が落ちて物々しい雰囲気になり
内心わくわくしていた。
でも音は苦手。

友人の中にはものすごく怖がる人がいて、街中だから大丈夫なのに
腕時計や金属アクセサリーまで外してしまう人がいる。

20年位前だが、自分が雷に打たれて死んだ夢をみたことがある。
スーパーの駐車場だった。
あ、雷 と思った瞬間、すーっと天に昇っていった。
当時大切に思っていた人達の名前を心の中で呼びながら…
そして天の上にある門をすうっとくぐったところで目が覚めた。
今も忘れられない夢。

記憶

休憩時間に、何歳位からの記憶があるか という話になった。
それぞれ多少の違いはあったが、特別なことがあったときの記憶は
断片的ではあるが、みんなかなり小さい時からの記憶があるということだった。
私も、幼い頃の断片的な記憶のほとんどは特別な状況。

トタンで頬を切ったり、出窓から後ろ向きにひっくりかえったり、
昔の大きな家具調テレビの下敷きになったり、川に落ちたり、
高熱を出して、母に横向きに抱えられて病院に行ったり
母におんぶされながら自転車に乗っているときに土手を登る大きなへびを見たり 等々
すべて5歳前の出来事らしいけど、覚えている。

大抵の場合その出来事が起こる瞬間の記憶しかない。
出窓転落は、その後3日間意識不明だったらしいけど
(姉にはよく、あの時は死ぬかと思ったと言われる)
あ!落ちる…のところだけ覚えている。
そのあとしばらく寝て過ごした記憶は全くない。
他の事件の時もあ゛あ゛ これはまずい…とかこわい!!という
強い感情を伴ったものは、その感情とともに、景色と瞬間の状況を覚えている。

他には家族で温泉に出かけた記憶
何かを買ってもらい、うれしくてたまらなかったという記憶
父がお菓子をおみやげに買ってきてくれた記憶
こわい記憶よりもぼやけているけど、3歳位のことでも覚えている。

小さな出来事だけど、今も鮮明に覚えているのは
縁日で風船を買ってもらって、私はすぐに手を離してしまい、飛んでいってしまった記憶。
遠くなっていく風船を見上げている私 …これは後々何度か夢にでてきた。
母によると、私が3、4歳の頃らしい。
母は、私に「もうひとつ買う?」と言ってくれたそうだが
私はきっぱりと「いらない!」と言ったという。
そして、その次の縁日でも、もう二度と「風船を買って」と私が言う事はなかったらしい。
その記憶はない。
風船が飛んでいくのを見ていた記憶と、あの時の悲しい気持ちは今も鮮明に甦る。
風船が惜しいというのではなく、飛んで行った、あっけなく手から離れてしまったという
なんともいえない気持ち。


電話がついた日

私は高校卒業後、学生の頃から親元を離れて暮らしている。

学生の頃は学生アパートに住んでいて
そこにはピンクの公衆電話が備え付けられていた。
だから自室に電話はなく、用事かある時はそこから掛けたり
向こうから掛けてもらうこともできた。
携帯電話というものはまだこの世になく
(ひょっとして自動車電話はあったかもしれないが)
不自由と感じたことはなかった。

就職して、アパートに住むことになったが
すぐに電話は取り付けなかった。
当時、電話の加入権は8万円(定かではない)ほどした。
レンタルでは割高になると思い
働いて自分でお給料を貰ってからつけることにしていた。

だがある日…(社会人になって一年後5月の末だったと記憶している)
自宅に帰ったら、電話がついていた。
父からの突然のプレゼントだった。

うれしい驚きだった。
電話が鳴る… どきどきしながらとる。

父だった。
父は「えっ!!もう電話ついたの!」とびっくりしていた。
まだ何日かかかると思っていたとのこと。
それなのになぜか電話をかけてみる父…
父は、かなり生真面目で厳しい人だが
かわいい?人(失礼だが)でもある。

私はお礼を言った。
電話機は淡い色でかわいい。
私が知らない間に大家さんが部屋の鍵をあけ、
工事の人が部屋に入ったのは
ちょっとアレだが。
(散らかしていなくて良かった)

父が電話をつけてくれたのは
アパートに変な人が出没したことや
私が具合が悪くなったちょっとした事件や
私が一向に電話を取り付ける様子がないことを
心配してつけてくれたのだった。

今もそうだが、私は毎週、決まった曜日の同じ時間に
実家に電話をかけなければならない。
父が決めた掟。
学生アパートを出た後は、いちいち近くの公衆電話まで行っていた。
電話が自室について便利になった。

今は携帯も普及し、さらに便利になった。
電話の加入権はほとんど無き物になった。

電話機はあの頃のものではなく
ナンバーディスプレーや留守電の機能がついたものに替えてしまったが
父が選んでくれた電話機はまだ残してある。処分できない。
あの日のうれしさは忘れられない。

先生その3

私は運動神経が鈍く、学校時代は体育が大嫌いだった。
体育の先生も好きではなかった。

熱い先生
わざとらしく盛り立ててくれる先生
絶対、馬鹿にしてる…と感じる先生
(私の一方的な被害妄想かもしれない)

中学生の頃、SI先生という怖い体育の先生がいた。
体育が苦手な私も、体育が得意な人も、皆その先生を怖がっていた。
まず、顔が怖い。どこの組の人?という感じの見た目。
厳しい。
あまり感情を出す事はなかった。
厳しいけれど、感情的に怒鳴るということはなかった。

私は体育だけはどうしても苦手で、評価もやっとこさ5段階の3をもらえるという感じだった。
それでも、中学生からは筆記試験も入るのでそれで随分救われた。
SI先生は、それ以外にもわりと点数をとるチャンスをくれた。
体育の実技の授業でも、前半のほんの5分か10分ほど、体育座りをさせ、理論を説明。
前回の復習がてら、指名して先生の問いに答えさせる。
その時、私はわりと頻繁に指名され、答えさせられていた。
正解ならば名簿になにやらメモメモ
…おそらく私はそこで点数をもらっていたのだろう。実技は絶望的なので。
また、呼ばれて前にでて、ちょっと逆立ちとか、
先生が説明するための道具的なこともよくさせられた。

細かいところで点数を貰ったというのは、まったくの私の推定。
感情を出さない先生ではあったが、
球技での私のとんでもない失敗にうっすら笑っていることもあった。
もし大嫌いな先生ならば、もう、とんでもなく不愉快だが、
SI先生だと、「あ、あのSI先生が笑ったよ…」(珍しい)という感じ
不愉快ではなかった。

そうは言っても、本当に厳しく、ちょっとした列の乱れも許さず、
言葉遣いにも厳しく、いつもみんな緊張していた。
先生に感謝する気持ちはあったが、好き(へんな意味でなく)にもなれなかった。
やっぱり怖い。。
SI先生はたしか、お坊さんでもあった。

それまでの体育の先生というと
変に熱かったり(一生懸命さでカバーさせようとする)、
わざとらしく盛り立てたり(いいところを無理矢理探し出して喧伝)
…その先生のやりかたでなんとか点数をくれようとしていたのだろうけれど
私には苦痛でしかなかった。
(かと言って、私にとって3未満の評価なんてありえないので、
 なんとかかんとか頑張っているふりはしたが)
SI先生の救い方は私にとってほとんど負担がなかった。
ありがたい、ありがたい。

先生その2

3、4年の時は、給食おかわり事件以外に
先生に対して強く反感を持ったことはない(記憶の中にない)

3、4年の先生は、とある私の能力を見つけて伸ばしてくれた。
そのような意味では、ありがいたいことだと思っている。
小学校卒業後も何年かは年賀状を出していたが
いつの間にか無沙汰している。

5、6年生の時の先生
O・K先生(男性)
いや~な先生だった。
今だったら問題とされることもやっていた。
生徒にはかなり嫌われていた。

身体測定…6年生ともなると発育の早い人はもう大人の体型になっていた人もいた。
…先生は豊かな胸の人をじろじろと見ていた。(女子生徒はみんな騒然)
他にも
体罰、無駄な制裁、差別、暴言、偏狭な視野、おかしな論理 などなど
こんな人が先生をやっていていいの!と思うこともしばしば。

自分に関することも、他の人がされたことも
具体的な事柄をあげきれない。
(自分のことについては、今思い出してもむかつく)

先生は隣の町から遠い道を自転車で通っていた。
グリンピースが嫌いらしくて、給食のお盆の向こうにころころと出して残していた。

数年前、何気なく見た先生宅の町の電話帳には、もう先生の名前は無かった。
ご存命なのであろうか?
それとも代替わりしただけなのだろうか?

給食おかわり事件

小学校3年か4年の頃
給食のうどんが大量に余った。
おかわりしたい人はしていいよ ということで
もっと食べられる人はおかわりをした。
私は、配られた分で十分だったのでおかわりはしなかった。

その日の帰りの会で
私はなぜかRに糾弾された。
おかわりをしなかったことで責めたてられた。
は?
なんで?
自分の分は残さず食べたよ(無理して)
食べたい人だけ食べればいいじゃん。
そう思ったけれど、あまり言い返すことはできなかった。

先生はめんどくさそうに
「食べろと言われたら、食べればいいのっ!!」と言った。

給食の容器を空にして返すのがいいということはわかる。
でも、おかわりをしないという、ただそれだけのことで
責められるのはおかしい。
しかも、おかわりをしなかったのは私だけではない。

未だに納得できない。

胃の大きさには個人差があるんだよ!
大体、うどんとごはんの組み合わせ、おかしいんだよ!
炭水化物ばかりでおかわりなんて無理!

先生

そろそろ新学期の季節
学校時代を振り返ってみて、大好きな先生とか、良い意味で心に残る先生はあまりいない。
特に、小学校時代の先生はあんまり…

1年生の時の先生はおばあちゃん先生S先生
…1年生から見ればおばあちゃんだったが、60前だったはず。

体育でなわとびができない私を見て、S先生は指をさして笑った。
S先生の耄碌のせいで私は自分の生まれた月の誕生会に参加できなかった。
幼稚園からの引継ぎ事項で別の月生まれになっていると言い張っていたが
幼稚園のときは、きちんと正しい月に誕生会をやってもらっていた。
皆の前でうそつきよばわりまでされた。
2年生になった時、誕生日は正しい月に直されていた。
途中で間違いに気がついたはずなのに、あやまることも、皆の前で訂正することもなかった。
今のご時世ならば、S先生のしたことはもっと問題にすることが出来ただろう。

2年生の時の先生はO先生
ヒステリーだった。(ヒステリーというあだ名がついていた)
私はされたことはないが、体罰もすごかった。
体操着を半分脱がせ、すっぽり頭を覆ってたまねぎのように縛り
晒し者にされた人がいた。

私は子供の頃から食が細かった。
お弁当の日のご飯の量は少なかった。
それをみたO先生はどなりちらし、私のお弁当箱を高く掲げ
クラス全員に見えるようにして
「きーーー*@ゝ#$」←意味不明
と、叫んでいた。
ますます食べることが嫌いになったし、人にお弁当箱を覗かれることに脅えるようになった。

前にここで書いたことのあるちょっとアレのKちゃんのことは
それはそれは大馬鹿呼ばわり(まあ馬鹿だったが)
O先生、Kちゃんがらみの事件で一番鮮明に覚えているのは…
…学校にひまわりを小さくしたような花を持っていった。
その花数本と、あと他の花を混ぜていくつか。
Kちゃんは家に戻って真似をして花を持ってきた。
同じ花瓶にいれて飾ったのでミニひまわりはまぎれて見えなくなった。
2、3日経ってからO先生が
「あら、この黄色い花、誰が持ってきたの?」
手を挙げると
「一つだけでなく、もっと持ってくればいいのに!!気が利かないね!」と言い捨てた。
クルクルパーのKちゃんの花は「よしよし、よく持ってきたねえ~」と猫なで声
普段はKちゃんのことを大馬鹿者!と罵っているくせに。


3、4年生の先生はまあまあ

5、6年の先生はかなりいやな奴
今は書ききれない(頭の中でまとまっていない)が、1,2年生のときより酷い
5,6年生にもなると、心も大人に近くなり反発心もあるせいか、不愉快度はかなり高い。

いやなことは鮮明に覚えている。

よく、恩師とか、(いい意味で)一生忘れられない先生に出会ったという話を聞くこともあるが
残念ながら、私はない。

それでも、先生というのは偉いと思っていたし
勉強でも、生活態度でもよい評価を貰いたいと思って頑張っていた。

茶店

また思い出した。
今日行った神社の近くの茶店にはずっと前に行ったことがあった。
その頃、神社の存在はあまり気にもとめていなかった。

友達の紹介という形で会った人がいて、その人と行った。
…その人、なんというか、変だった。
話もはずまない。(話がはずまないのはほぼ私のせいだが)
歴史館とか天文台に行った後、茶店に行った。
いちいちビデオをまわしているのがまず気持ち悪い。
そこに行くまでに私は乗り物に酔って(短距離なのだが)、
何も食べたくはなく、相手と同じものを頼んだが結局食べられなかった。
相手の人が私の分も食べた。
私は一刻も早く帰りたく、相手の人はもっといろいろ見て回りたいようだったが
振り切って帰ってきた。
なんだか知らないが、サイネリアの鉢植えを強引に渡された。
初回がそんな感じで、紹介してくれた友達には謝ってお断りした。
ところがその人は友達から私の電話番号を聞いて、かけてきた。
私は酷くそっけない態度をとり、付き合う気はないことを告げた。
相手は「私は付き合いたいんですが!」と強い調子で言う。

…片方だけ付き合いたいと言い張ってもどうしようもないよ…

何日かしてまた電話があった。
私の態度は硬化するばかり。
そしたら相手は
「じゃあサイネリア代払って貰えますか?」と言った。
私「いいですよ。会って払うことはしたくないので、口座番号を言ってください!!」
相手はうろたえたようだった。
払うためにまた会いたかったのか、
それとも払うくらいなら付き合うと私が言うとでも思ったのか?
しばらく間があって(通帳を出してきたらしい)口座番号を言い始めた。
私は機械的に復唱し、電話を切った。
翌日振り込んだ。
(たぶん1000円くらい…サイネリア、そんなにしないよ…でもこれで縁が切れるのなら)
紹介してくれた友達にはありのまま話した。
友達は払うことないよ と言っていたが、
これ以上付きまとわれるのは迷惑なので払ったほうがいいと思った。
振り込んだ翌日、電話が来た。
「振り込みましたか?」
(通帳記入すればわかるだろ!)
「振り込みました。もう電話しないでください」 ガチャ

しばらくしてから、仕事の帰り道に一度だけ待ち伏せされた。
何かごちゃごちゃ話し掛けてきたが、立ち止まらず、目礼だけして通り過ぎた。
人通りが多く、通行人がその人をじろじろ見ていたので、すぐにいなくなった。

そして何年かたった後
ある公的な所でのデータを扱う仕事の中でその人のデータと出会う。
(全くの別人で同姓同名・同じくらいの年齢、近い住所という可能性もあるが)
その人は正常というわけではなかった。
私と会った当時もそうだったのか、それとももっと後にそうなったのかは分からない。
紹介してくれた友達に、今更、○○さんて○チ○イなの?などとは聞けない。
(そもそもそういう情報を見たことを言ってはいけない)

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あのサイネリア 盗聴器がつけられていたらどうしようということをまず疑った。
失礼だが、盗聴器を仕掛けてもおかしくないような雰囲気がその人にはあった。
で、部屋の中には入れずベランダに放置していた。
たまに水遣りはしていたが、そのまま直に枯れてしまい、捨てた。
そういう思い出があるせいかサイネリアはあまり好きではない。

な~んかおかしな人を紹介されてしまったが
友達も兄弟の知人ということで、それほど面識はなく
兄弟に頼まれたから…ということで、私に紹介してくれたとのこと。

偽りの仕事

今日の神社参り。
普段ほとんど行くことはない地域。
地図を頼りに歩いていたら、以前アルバイトをしていた所に近いと気がついた。
そのビルの前を通った。
(昨日のは近いと分かっていて行ったが、
 今日は歩いていてそういえばこのあたり見覚えがある…という感じ)

その仕事は2ヶ月弱のアルバイト。
電話の仕事だった。
今、その会社はそこにはないし、その会社にいた当時
機密保持の誓約書を書いた覚えもないので、ちょっとしたことを書かせていただく。

その会社は教材販売会社だった。
会社名簿を元に片っ端から電話をかけ、社員の住所を聞きだし、そこにDMを送付。
DMを読んだと思われる頃にまた電話をしセールストーク。
その中の、住所を聞きだす仕事を主にやっていた。
大抵の場合、最初に電話を取るのは女性の事務の人。
その女性に、うその理由を言って(例:化粧品のサンプルを送る等)住所を聞き出す。
他に女性社員はいるかどうかを聞き、いればその人の住所も聞き出す。
会社名は某大手化粧品メーカーの名を騙っていた。自分の名前も偽名。
なんという手口。
当時は、そんな手口もまかり通っていたし、
7割位の人はなんの疑問もなく住所を教えてくれた。
(そんなことは犯罪だし、今は意識も高くなって自分の住所を簡単に教えることはないと思う)
でも、相手がその手口に気がついたこともあったし、当然だが怒鳴りつけられたこともある。
最後の方は精神的に相当参っていた。

この仕事は国家資格取得の為の営業補助業務という名目での募集で
そんな詐欺をさせられるとは思わなかった。

その会社に人たちは、みんな良い人たちで、人で悩むということはほとんどなかった。
でも長く続ける気はなかった。
単なるアルバイトとして自分も騙してやっていた。
正社員にという話もあったが、契約期間だけで辞めた。
職業に貴賎はないとは言っても、人に胸を張って言えないような仕事はいやだった。

あまり思い出したくもなく、忘れていた仕事だったが
今日、偶然その前を通りかかって思い出した。
ついこの間まで、働いていたところとも割合近かった。
通りが一本違うし、詐欺会社の方が遠くにあるので気がつかなかったが
私は、この間まで毎日近くまで来ていた。

回想 異動

今日、神社に行くために降りた駅の近くに、ずっとずっと前、通勤していた。
神社と元職場は駅から見て反対方向なので懐かしいということはない。
その当時、そこには駅はなく、当時の最寄の駅から30分ほど歩いていた。
職場自体には長くいたが、その勤務地には1ヵ月ほどしか通っていない。

かなり不本意な形での異動だった。
評価してくれて、肩書きもつけてくれ(たいした肩書きではないが)
給料も少し上がる形ではあったが
裏の理由は、Xさんを異動させるにあたり、そのお守りのため(またお守り役)
Xさんは本当に無口で、ほとんどしゃべらず、意思表示をすることのない人
…そんな人をひとりで異動させるのはかわいそう…
ということで、Xさんと同期入社で家の方向も同じで、
比較的よく話す私も異動することになった。
裏理由=本当の理由は異動してから知った。
ショックだった。

そして、Xさんはその勤務地にはすんなり適応できたようで
元の勤務地にいるより、ずっと生き生きとしていた。
世話好きというか、人の中に立ち入ってくる人が多いことが、
Xさんには合っているようだった。
それは喜ばしいことだと思う…でも私は一体…別に私がいる必要はないということ。


私はその勤務地の雰囲気は苦手だった。
元の勤務地は規模が大きく、淡々としていた。
そこは規模が小さく、よく言えばアットホーム。
私はそういうのは苦手。
案の定、お昼のメニューの説明(なぜこれを食べるのか、この量なのか)を
いちいちしなくてはならない。
時には終業後に皆でボーリングやカラオケ等の活動もあるという…
人のことを根堀葉堀聞き出し、何をするのも一緒。人に干渉する。
前の日に観たTV番組もいちいち報告しなければならない。
TVドラマのあらすじはTV欄で見たのか、雑誌で見たのか問い詰められる。
うんざり。
わずらわしくてたまらない。
来るところを間違えたと思った。

それでも慣れよう、新勤務地のやり方も覚えようと頑張ったつもり。
Xさんは面倒な業務はさりげなく避け、朝の準備当番の説明を受ける日でも
しゃあしゃあと遅れて来て、それが許されるという雰囲気
仕方がないから朝の準備当番は私が覚え、
後でXさんに私が説明すればいい とのこと。
なんなのそれは?Xさんは馬鹿でもキチガイでもなく、
まともな人なのだから同じ扱いにしてほしい。

馬鹿馬鹿しくて仕方がなく、また堪え性もなく、私は辞めることにした。
上司と長い長い話し合いをし、
ある程度の時期になったら、元の職場に戻すとも言われたが
もう私の心は決まっていた。

上司は変に気をつかい、「他の人には当日まで言わないことにする。」と言う。
どうでも良かったが辞める当日の爆弾も面白いかもと思った。

辞める当日お菓子を持っていった。
偶然Xさんももお菓子を持ってきた。(小学校時代のKさんを思い出す)
これからもよろしくということでお母さんが持たせてくれたとの事。
ちょっと面白くなかった。

同僚は私が辞めることを知り愕然。
早速質問攻め 一番鬱陶しいT田。
Q「いつ辞めることを話したのか?」
A「2週間前」
Q「退職願いを出したのはいつ?」
A「2週間前」
Q「退職願と退職届って違うよね?どっち?」
A「退職願を2週間前」(就業規則通りだよ、何か文句ある?)
Q「次の仕事は?」
A「まだこれから」
Q「どうやって生活するの? あ、実家から援助あるんだ~」
A「ないよ」(あんたばか?)
Q「じゃあどうやって生活するの?」
A「別にどうでもいいじゃない」(うるせ~)
Q「このお菓子どこで買ったの?」
A「F百貨店」
Q「Xさんと一緒に行って一緒に買ったの?」
A「違うよ」
 「………」
T田、納得できないという顔で3度ほど、下卑た顔を捻る。
こんな奴と一緒に働くのも今日で最後。


このことでXさんに恨みを持つような事はない(それはお門違い)
安易にXさんのお守り役任務を私に任せるような会社には当時、怒っていた。
辞めたことについての後悔はないが、頑張るという道もあったと今は思う。
お守り役不必要すなわち私が不必要ということではないのだから
馴染みにくい雰囲気ではあったが、その場所で与えられた肩書きにふさわしい働きをする、
努力するという道もあったはず。
私は もうやってられない→辞める!と突っ走ってしまった。

私にお守り役は務まらない。
そんなに親切じゃないし、面倒見もよくない。
それでもXさんに対しては精一杯気を遣ったつもり。
でもちっとも喜びはなかった。強制された偽善だったからかもしれない。

後日、送別会があった。
中華料理をごちそうになった。
その後は2次会のボーリング。
え?と思ったがその勤務地ではボーリングは日常的だという。
私は力なしでボーリングは嫌いだったが仕方がない。
しかも、2次会なのでお金を払うように言われた。
なんで自分の送別会で自分の嫌いなことを自分がお金を払ってやらなければならないのか?
だがこれでこの人達と会うのも最後、仕方がないと思うしかなかった。
その会社での勤務期間のうち、ほとんどを元勤務地で過ごした私。
他の人が辞めるときに随分と記念品代等を徴収され、払ってきた。
それが自分の時はお金を払ってボーリング………
(まあ、異動になるときにはいろいろしてもらったが)
なにもかもがばかばかしい。
今となってはどうでもよいことであるが。

幼馴染

家が近所で同学年だったKちゃん。
本当はあまり好きではなかった。
Kちゃんのおかあさんから遊んでね と言われ遊んでいた。

学校に入る前は特にトラブルはなかったのだが
Kちゃんはちょっと知的にアレだった。
小学校入学の時、Kちゃんのお母さんが、私と同じクラスにしてくれと学校に頼んだらしい。
そのせいかどうか1年から3年生までは同じクラスだった。

そんなことが通用するのだろうか?しかも私の意志には関係なく?
その理由がだんだんにわかってきた。
日常生活に問題はないものの、Kちゃんは学校の勉強についていくことが難しく
面倒を見る人が必要だった。
4年生からKちゃんは特別学級に入ったので
とりあえず、離れられたのだが、体育やら音楽などは
基本クラスに戻ることになっていたので、結局同じクラスに組み込まれることになった。

勝手な思い込みかもしれないが、この手の人は勉強ができなくても、
にこにこしていて、純真で…というイメージがあるがKちゃんは違った。
人のせいにする。人の悪口を言う。ずるい。
…ずるいことを考える力はあるのだが、ドリルは全く意味のない文字の羅列。
今が何時かもわからない。
テストは当然、隣の人のものを覗き込む。
店や人のものを盗む。悪意もある。盗みを人のせいにする。
強い口調でものを言う(これはKちゃんのおかあさんもそう)

Kちゃんはなんでも人の真似をしたがった。
私が学校に花を持っていくとき自分も真似して持っていった。
そして初めは並んで歩いていても学校近くになると急に先に行って
自分の花を飾ってもらおうとするのだ。
教室に花瓶はひとつ。

近所という理由だけでKちゃんのおもりをさせられる不条理。
無償ボランティアではないか。
もっとも、Kちゃんのおかあさんは、私を家に呼んでおやつをくれたり、気を配ったりして
面倒を見てくれているつもりだったかもしれない。


今でも許しがたいかさ事件
ある日、朝は晴れていたのに学校が終わる頃に雨が振り出したことがあった。
Kちゃんのお母さんが傘を持ってきた。
私の母は用事があってこられなかった。
掃除中のわたしに、教室の傘立てにかさを置いていくので
Kちゃんと一緒に入って帰るように言われた。
私のほうが先に帰れることなり、もちろんその傘はKちゃんが使うべきだと思ったので
私は他の友達の傘に入れてもらって帰った。
その間にその傘は無くなってしまったらしい。
わたしは一切傘には手を触れていないので知ったことではないのだが
Kちゃんの脳内では私が盗んだことになったらしい。
先生に告げ口し、私はそのままのことを先生に話し
一緒に帰った友達にも傘を持っていなかったことを証言してもらった。
先生はわかってくれたと思う。
それなのにKちゃんは理解できなかった(今考えれば時系列で思考する能力はなかった)ようで
家に上がりこんで、下駄箱の傘を全部だしてみせてと喚いた。
見せて ここにはないことを証明したが、まだ納得できていないようだった。
あのときは小学生ながらKちゃんがこの世からいなくなればいいとさえ思った。

Kちゃんのおかあさんも、本人に傘を手渡すか
自分の馬鹿娘の下校時間まで待って傘を手放さなければ良かったのに。
Kちゃんのお母さんも変な人だった。
こんなことを言ってはなんだが家の中はとてもとても汚かった。
Kちゃんがなにかしても、Kちゃんのお母さんが謝った記憶はない。
先生も放置だった。Kちゃんが仲間はずれにならないようにするだけで、
Kちゃんの所業はそれほど問題にされなかった。

私の家では、まあ仕方がないというスタンス。
Kちゃんに振り回されて大変だったね、アンタは何も言わなくても全部知っていたよ
…と私の母が言ってくれたのはつい数年前。
そのときに何とかして欲しかった。

Kちゃんとの思い出は不愉快なものが多い。
お馬鹿なのだから仕方がないといえば仕方ないのだが。
たちの悪い馬鹿だった。
うちの猫まで盗まれ、母が取り返しに行った。
猫はKちゃんとその弟にキャッチボールにされていたという。

でも…私も意地が悪かった。
周囲から嫌われているKちゃんと一緒に行動するのはいやだった。
一緒にいるだけで私も嫌われそうな気がしたし 交友関係も狭くなってしまうと思った。
苛められていても、遠巻きに見ているだけだった。
Kちゃんの悪口も言っていた。私自身がなんとなくイジメたこともある。言葉の暴力も使った。
私にはKちゃんに対しての思いやりは無かった。

たくさんの嫌な思いをしながらもきっぱりと切り捨てる勇気もなかった。
中学校も地元の公立中学校なので一緒。
中学生になって、自分の名前も漢字で書けるようになったようだった。
小学校より3クラスも多いから同じクラスになる確率は低いと思っていたら、なぜかクラスもずっと一緒。
小学校からのお達しが行っていたのか?
そうだとしたら随分ではないか?
そこまで私が面倒をみなくてはならないの?
Kちゃんは同じ部活にまでくっついてきて入部した。

高校で離れた時にはせいせいした。
今、帰省した時も会うでもなく、連絡を取り合うわけでもない。
本当の幼馴染とはいえないかもしれない。

Kちゃんは私自身の冷酷さや小ささを思い知る存在でもあった。
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おおやしまねこ